名古屋地方裁判所 昭和25年(ヨ)162号 決定
申請人 全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会
右代表者 執行委員長
被申請人 トヨタ自動車工業株式会社
一、主 文
本件仮処分の申請を却下する。
訴訟費用は申請人の負担とする。
二、理 由
(一) 申請人分会は一、被申請人会社は企業整備による人員整理をしてはならない。一、被申請人会社は申請人分会並びにその分会員に対して前項の目的を遂行するための退職勧告、退職強要その他分会員の生活に不利益を与うる行為をしてはならない。一、被申請人会社は申請人分会と協議し且つその同意を得ることなくして分会員の給与その他労働条件の決定変更及びこれに関する諸規定の制定改廃をしてはならない。一、被申請人会社が前各項に違反する行為をした場合には名古屋地方裁判所執行吏は適当な措置を講じなければならない。との趣旨の仮処分を求め、被申請人会社は右申請を却下するとの裁判を求めた。
(二) 申請人分会の主張の要旨
被申請人会社は自動車の製造を業とする会社であり、申請人分会は右会社の挙母工場、名古屋事務所及び大阪出張所に勤務する従業員をもつて組織する労働組合で、その組合員数は昭和二十五年四月二十日現在で合計七千五百三十一名である。
被申請人会社は金融難に藉口して昭和二十四年六月より賃金の遅配を始めるようになつたので、申請人分会はこれを憂慮し同年七月二十七日進んで会社に対し右のごとき賃金遅配を解消する危機突破対策なるものを提示し、被申請人会社はこれに対し同月三十一日申請人分会の対策を全面的に取上げることを約束した。然るに被申請人会社はこれを実行せず分会の対策を取上げようとしなかつたため、賃金の遅配は依然として継続され、分会員の生活は急速に困窮し年末におし詰るとともに全く筍生活に疲れ果ててしまつた。これに耐えかね申請人分会は同年末に際し越年資金四千円を要求すべく闘争に立ちあがつたのであるが、被申請人会社はこれに対し分会の要求は一応認めるがその代り同年十一月分に遡つて平均賃金ベースを一割切下げて貰いたい。そうすれば賃金は必ず所定日に支払うようにするし、又企業整備のための人員整理をしないで済むと提案して来たので、申請人分会は止むなく涙を呑んでこれを承認することとした。このようにして同年十二月二十三日被申請人会社は申請人分会との間に従前のように分会の同意を得ずして人員整理のための解雇を行わない旨の基本協約を締結し、次いで同月二十四日被申請人会社は今後絶対に人員整理をやらず且つ賃金は必ず所定日に支払う旨の覚書を申請人分会との間に取りかわしたのである。しかるに被申請人会社は翌二十五年一月より再び賃金の遅欠配を繰り返すようになり、同年四月に入つても三月分の賃金は支払われず分会員の生活はいよいよ悲惨な状態に追いこめられた。ここにおいて申請人分会は同月六日臨時大会を開き被申請人会社の企業に対する不誠意を糾弾し、賃金遅欠配克服のための企業再建確立を期して闘争状態に入ることとなつた。それでも申請人分会としては何とか平和裡に事態を解決しようとし、被申請人会社との間に同月十一日から二十日にかけて数囘穏便な団体交渉を重ねたのであるが、被申請人会社は不誠実にも賃金など支払つて行ける自信がないと空嘯き分会の再建案を碌に取り上げて検討しようともしなかつた。そして遂に同月二十二日第八囘の団体交渉において被申請人会社は前記申請人分会との間の基本協約及び覚書の存在を無視し分会がこれまで夢想だにしなかつた大量の人員整理(コロモ分会だけで千六百名)をなすことを言明し、これをしなければ会社は三日以内に潰れると脅迫的言辞を弄するに至つた。
近時金融資本は企業合理化の美名の下に従業員の犧牲において人員整理による企業の再建整備なるものを押し進めているが、トヨタ資本系統に属する刈谷市の愛知製鋼、愛知工業、日本電装等の各会社においても現にその具体的事例があらわれている。申請人分会としては前述のように被申請人会社が人員整理による企業整備を絶対にやらないと確約したればこそ、賃金の切下げ案をも承認したし、又賃金の遅欠配等あらゆる悪条件に耐え忍んで来たのである。しかるに今や突如として前記のような無暴な言明を聞くに至り、申請人分会はもはや被申請人会社の誠意と誠実性に信頼することが不可能となつた。被申請人会社はいつ企業整備のため申請人分会員に対し解雇通知をなすやも計られぬし、又その前哨戦として分会員に対し整理のための協力要請、退職勧告、退職強要等あらゆる奸策をとることも考えられ、なお前示基本協約第七条に違反し分会員の労働条件の決定変更及びこれに関する諸規程の制定改廃を分会との協議同意を経ずして行うことも容易に予測し得るところである。しかして被申請人会社が以上のような違法不当な強行手段をとるにおいては、申請人分会の団結は切り崩され分会員の右基本協約及び覚書によつて保障された権利は囘復することのできない損害を被ること極めて明白である。よつて申請人分会としては一刻の猶予も許されず被申請人会社に対し基本協約及び覚書の確認の本案訴訟を提起するに先だち、取りあえず本件仮処分申請に及んだ次第である。
(三) 被申請人会社の答弁の要旨
本件仮処分申請事件に対する本案訴訟は昭和二十四年十二月二十三日附基本協約及び同月二十四日附覚書の確認訴訟であることは本件仮処分申請自体によつて明瞭であるが、右基本協約及び覚書は法律上労働協約としての効力を有しないもの故、本件仮処分申請はすでにこの点において失当たるを免かれない。すなわち凡そ労働協約なるものは労働組合法第十四条の規定によつてその法律上の効力を生ずるのであるが、右基本協約及び覚書はいずれも同条所定の方式に違背し協約当事者署名を欠いているから労働協約として不完全であつて法律上の効力を生じ得ないのである。したがつて右基本協約及び覚書が有効に存在することを前提とする本件仮処分申請の理由なきことは勿論である。
つぎに仮に右基本協約書及び覚書が法律上有効であり被申請人会社に対し拘束力を有するとしても、申請人分会の仮処分申請は次の理由よりしてやはり失当であつて却下を免れない。
基本協約書第三十三条には「雇入、解雇、異動、昇進、昇給その他人事を行う権利及び責任は会社にある」と定められ、又従業員就業規則第四十九条第一項第三号には「止むを得ない業務の都合によるとき」は解雇し得る旨謳つている(尤も右は基本協約第三条にいうごとく「経営及び人事についての権利と責任は会社にあるが、その運営に当つては全従業員の総意を基調として行う」ことの制限の存するはこれを否認しない)すなわち被申請人会社は法律上当然に人事権を附与されているのみならず、分会との間の協約によつても人事権を留保しているのである。申請人分会は本件において被申請人会社が人員整理をしてはならない旨の仮処分を求めており、右は多分覚書第三項を楯にとつての要求と考えられるが、かかる主張の誤つていることは次の事情よりしても明白である。すなわち「会社は危機突破の手段として人員整理を絶対に行わない」との覚書第三項の定めは、被申請人会社の経営状態が最悪の危機に瀕した場合には申請人分会の協力を求めれば会社対分会の伝統的情誼関係よりして必ず分会の同意を得られるという期待のもとに取極めされたものである。右覚書締結当時の事情からいつてその通りであるのみならず、同覚書の文言上の解釈からいつても「会社は危機突破の手段として人員整理を絶対に行わない」とあるを「会社は如何なる危機に際会しても絶対に人員整理を行わない」趣旨に読むことはまことに非常識である。危機には色々の態様があり、中には絶対に人員整理を囘避し得ない危機も存する。本件覚書締結当時被申請人会社のおかれていた環境はともかく人員整理をせずとも切り抜けられる程度のものであつたが、現在被申請人会社の直面せる危機は絶対に人員整理を避け得ない深刻なものである。この最大の危機を克服し、企業再建の成果を挙げることこそ、被申請人会社が前記基本協約第三条にもとづき申請人分会に対して有する権利であると同時にその負担する責任である。この権利を行使してこの責任を果すため被申請人会社に対して認められた会社内の人事に関する権利を抛棄することは被申請人会社として自殺行為であるばかりでなく、申請人分会といえども被申請人会社に対し右人事に関する権利の抛棄を強制する権限はない筈である。このことは右覚書締結当時申請人分会が分会員中会社に対する不協力者や能力不足者を被申請人会社において整理することを暗默のうちに容認していた事情に徴するも明白である。しかして今や被申請人会社にとり当初予想もしなかつた至難な事態が到来し、この際断乎として人員整理をなすにあらざれば会社の経営は絶対継続不可能となり、ただに被申請人会社のみならず全国百六十の協力工場、四十七の販売店の全従業員は明日の生活の資を失い路頭に迷い出るべき最後の関頭に立つているのである。かかる運命的な最悪の事態に際会した場合申請人分会に対し協力を求めれば当然分会はこれに対し同意するものと考えればこそ被申請人会社はこのような覚書を取り交したのであり、若しこの確信にして誤りがあるならば、この覚書締結につき被申請人会社は意思表示の要素の錯誤があつたものでありその法律上の効力を否定せざるを得ない。又被申請人会社は昭和二十五年四月二十二日以来の数次にわたる団体交渉において申請人分会に対し人員整理を含む会社の再建案を提示しその同意を求めて誠意を披れきして来たのであるが、申請人分会は前示基本協約第二条「会社及び分会は相互に団体交渉に応ずる義務がある」旨の協定に違背して屡々被申請人会社との間の団体交渉を拒絶し、あまつさえ右基本協約第四十四条の定めを無視して違法に争議行為を開始して現在に及んでいるのである。
(四) 当裁判所の判断
本件仮処分申請事件において申請人分会の主張する被保全権利は、申請人分会と被申請人会社との間に締結された昭和二十四年十二月二十三日附基本協約及び同月二十四日附覚書にもとづく申請人分会の労働協約上の権利であるから、右基本協約及び覚書がはたして被申請人主張のように法律上労働協約としての効力を有せざるものなりや否やの点につき一応の判断を加える。
旧労働組合法第十九条によると労働協約は書面に作成すればそれで法律上の効力を生ずると規定されていたが、新労働組合法第十四条はこの点を改正し労働協約は書面に作成した上更に協約当事者が右協約書に署名することをもつてその効力発生の要件としている。すなわち改正労働組合法の立場では当該労働協約の内容となつている事項が協約当事者の真の最後的意思であることを確認させる方法として、単に書面の作成をもつては足らず更に協約当事者が自らこれに署名することを要求しているのである。そしてここにいわゆる署名とは、労使の各代表者が両当事者の名称及びその代表資格を記載した上、自筆をもつてその氏名を書き記すこと、即ちいわゆる自署することを意味している。従来我が国においては文書の作成者がその作成名義者を表示する方法として署名をなすことは寧ろ稀で多くの場合記名捺印又は単に捺印をもつてこれに代える慣習が行われており、商法中署名すべき場合に関する法律(明治三十三年法律第十七号)や手形法第八十二条、小切手法第六十七条は右慣行を考慮し商法及び手形法小切手法の領域においては記名捺印をもつて署名に代え得る旨又は署名は記名捺印を含む旨規定しているのである。しかしながら署名の方法に関し右のごとき特別の規定を設けない改正労働組合法の解釈としては、労働協約書の署名に際し右のような便法を用うることは許されず、専ら当事者の自署が要求せられているものと考えざるを得ない。けだし労使間における複雑な権利義務の関係を終局的に決定する労働協約の締結に当つては、協約当事者は通常数次の交渉を重ねて漸くにして最後の結論に到達するのであり、従つて協約書の作成に際しても当事者は協約条項の趣旨の表現につき慎重な検討を加うべきは勿論、その最後的意思を明白に確認する方法として自ら筆をとつてこれに署名することが最も妥当であり、且つこれによつて協約の成立及び内容に関し後日紛争の生ずることをも防止し得るからである。すなわち労働法上の労働協約と称し得るためには協約当事者が協約条項を書面に記載した上自らこれに署名することが絶対に必要なのであつて、若し協約書が以上の意味における署名を欠くにおいてはそれは労働協約としての効力を保有し得ないものと言わねばならない。
そこで本件基本協約書及び覚書(これらはその名称はとにかく内容において労働協約たる実質をもつている)を検べて見ると、前者は昭和二十四年十二月二十三日、後者は同月二十四日の各作成にかかわり何れも改正労働組合法の適用を受けるものであるが、その各末尾の協約当事者の署名の欄にはいずれもタイプライターをもつて、「トヨタ自動車工業株式会社社長豊田喜一郎」「全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会執行委員長弓削誠」と並記し、その名下に同人等の印章が押捺されてあるが、右豊田喜一郎及び弓削誠の自署と見られるものはどこにも存しない。即ち右基本協約書及び覚書は労使各当事者の代表者たる豊田喜一郎及び弓削誠の署名を欠く不完全なものであつて労働組合法上の労働協約として取扱うことはできないものであり、従つて右基本協約並びに覚書は申請人分会及び被申請人会社の双方に対し労働協約としての効力を及ぼさないこと明瞭である(その結果すでに右協約及び覚書にもとづき為された行為の結果につき複雑な関係の生ずることは免れないであろうが)。果してそうとすれば、右基本協約及び覚書が申請人分会と被申請人会社との間に有効な拘束力を有することを前提とし、被申請人会社に対し冒頭掲記のような仮処分の裁判を求める申請人分会の本件仮処分申請は結局その被保全権利について疏明なきに帰することとなるからこれを認容するの余地はない。
よつて右申請を却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十五条、第八十九条を適用して主文のように決定する次第である。
(裁判官 山口正夫 奥村義雄 杉山克彦)